米原から西円寺、息長。古代から中世の近江を訪ねる(ハイキング・コース)

このコースは、米原駅から北国街道を進み、廃道になった道で尾根を越えて西円寺の集落に入ります。そこから、古代は息長氏が、中世においては京極氏や浅井氏の配下の土豪・武将たちが治めていたであろう、農村地帯を歩きます。いくつかの城跡を訪れ、いくつかの古墳と古代からの神社を訪れます。

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コースの見どころ

米原駅東口(近江鉄道の駅がある方)を出ると、米原湊の記念碑。かつてここに湊があったと思いをはせながら、少し東の旧北国街道に向かいます。米原駅から北国街道を経て米原高校に至るまでの案内はこちらを参照してください。

さて、米原高校手前の交差点まで来たら、米原高校の背後にある尾根に取り付きます。国土地理院の地図では道があることになっていますが、どうやら道が崩れたらしくて、車道からの入り口が廃道になったのか、位置が変わったのか、わかりません。

国土地理院地図
米原高校付近の国土地理院地図

仕方なく強引に斜面を登ったらものの5分で道が見つかりました。この道は、米原高校の脇から、尾根を越えて西円寺の集落に向かう道です。かつては林道として使われていたのでしょうか。幅2mほどもある良い道が、米原高校背後の尾根を通っています。

米原高校から西円寺へ続く道
米原高校から西円寺へ続く道

道はやがて西円寺を馬蹄形に取り囲む尾根筋の峠を越えて、西円寺集落へと下っていきます。この峠は西円寺砦の堀切ではないか、という説もあるようですが、はっきりわかりません。

また、正直、山登りや山城に興味のない方は、この道をたどって西円寺集落へ向かうことをお勧めします。取材の時はGoogle Mapに記しのある西円寺砦を確認しようと、西円寺山の頂上へと向かいました。ところが頂上に着くまでにはほぼ踏み跡もなく、また頂上を越えて山城の跡を探してみましたが、若干広くなって郭かなと思わせるところがある以外は山城に多い土塁や堀切も見当たらず、明確な山城の証拠は見つかりませんでした。最後には道のない斜面を適当に下って集落に出ました。藪漕ぎが必要なうえに、ダニまで出ますので、よほど興味のある方以外にはお勧めしません。

西円寺山
西円寺山

西円寺砦は、室町時代から戦国時代に京極氏、後に浅井氏に仕えた今井氏の奥城と言われています。西円寺集落最奥に西園寺という黄檗宗の寺院があります。取材の時には見つけられませんでしたが、ここには今井氏最後の3代の墓石があります。記録によると今井氏14代今井秀俊は1533年に六角定頼浅井亮政の争いに巻き込まれて切腹。15代今井定清は浅井長政に従い、1561年に磯野員昌と共に六角方の太尾山城を攻撃した時に討死。その子、今井秀形は豊臣秀吉に従い1583年に伊勢で討死し、今井氏は途絶えたそうです。

大雄山西園寺は、14世紀後半に京極氏の根本被官(筆頭家老)であった今井氏4代今井遠俊が開いたものだそうです。かつては延暦寺に従う天台宗の寺院として栄えていたそうですが、1575年頃に、織田信長が延暦寺を焼いた折に攻撃を受けて焼失。その後、江戸時代になって黄檗宗の寺院として再興されました。中国風の山門の両側に龍の像があります。

西園寺の山門
西園寺の山門

ただ、西園寺の一帯はかつて今井氏の居館があったともされており、寺院の周囲には土塁などの遺構も確認できます。西園寺が今井氏の菩提寺であったことを考えると、寺院の敷地と館が一体化していたのかもしれませんね。

西園寺の土塁
西園寺の土塁

西園寺には玉泉亭という庭園があります。彦根城玄宮園を作った作庭師たちが、西園寺の裏にある近江稲荷の堂が造られた時に、西園寺に逗留して玉泉亭を作ったとされています。もう少し手入れしたら、観光客を呼べるかもしれませんが…

西園寺の玉泉亭
西園寺の玉泉亭

西園寺には他にも由緒のあるものがあり、背後の山も含めてゆっくり探索すると発見があるでしょう。また西円寺集落周辺にも他の遺跡や古墳などがあるとされていますが、位置などは調べても全く分かりませんでした。

西円寺集落から国道21号線の下をくぐって北上します。あたりは美しい田園風景です。

しばらく北上すると、天野川につき当り、橋を渡ります。この辺りは1571年に起きた箕浦の合戦の現場のようです。箕浦の合戦では、南に進出してきた浅井長政の配下の浅井井規の軍勢と、横山城にいた豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)、鎌刃城主の堀秀村らが挑み、浅井勢を撃退しました。川の向こうが箕浦の集落です。

箕浦のあたりは戦国時代にはたびたび戦場になっていたようで、1531年には六角定頼浅井亮政との間に箕浦合戦が起きています。

箕浦の合戦の天野川
箕浦の合戦の天野川

天野川の対岸、箕浦の集落のあたりには箕浦城がありました。箕浦城は当初今井氏の居城でしたが、1570年の姉川の戦いで浅井方の今井氏は破れ、1571年に堀秀村らが入城していたそうで、そのまま箕浦の合戦に繋がっています。集落内の水路は堀跡だと言われており、また付近の水田の中には居館跡とされる土壇が残っています。

箕浦の集落からは、近江はにわ館へ向かいます。ここは米原市立近江図書館が入っており、玄関を入ると近くの古墳で発掘された埴輪が数体展示されています。石見型埴輪は珍しいものだそうです。はにわ館という名前ですが、展示はこの数体だけです。

はにわ館を出て北陸自動車道に少し南下したところに塚の越古墳があります。この古墳は元々前方後円墳だったようで、石見型埴輪も出土しており、このあたり一帯の息長古墳群の中でも重要なものであったと考えられています。ただし中世に砦として使われたために、原形をとどめないほど破壊されてしまっています。

塚の越古墳
塚の越古墳

北陸自動車道を越えて東に向かって歩いて行くと、息長小学校や息長郵便局があります。息長氏は古事記・日本書紀に登場する有力豪族で、奈良時代までにはこの辺り一帯を治めていたと考えられています。継体天皇が息長氏の出身という説もあるそうです。

その息長郵便局の北側辺り一帯が能登瀬城のようですが、現在は宅地になっています。現存する水路が堀の跡とされていますが、それ以外の遺構は見ることはできないようです。能登瀬城は京極氏に仕えていた堀秀村ら堀氏の居城でした。今もこの地域には「堀」姓の人が住んでいるとか。

北側から尾根が下りてきていますが、そこが息長氏の祖を祀ったという山津照神社の鳥居です。「延喜式神名帳」にも出てくる古社です。現在の祭神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)です。

山津照神社の鳥居
山津照神社の鳥居

石段を上がるとそこにあるのは善性寺。この寺の本堂から背後の尾根にはかつて青木城と呼ばれる青木氏の館があったとか。青木氏は山津照神社の別当だったとされていますが、それ以上のことはあまりわからないとか。

善性寺
善性寺

広々とした山津照神社の参道を歩いて行くと、山津照神社古墳。前方後円墳です。明治時代に神社の参道の拡張工事で発見されたとか。鏡や須恵器など数多くの遺物が出土したそうです。

息長氏の祖を祀る山津照神社の拝殿と本殿。

山津照神社からは、山すその青木神社の方に下ります。青木神社からは、水田地帯を突っ切って、天野川を渡り、醒ヶ井駅へと向かいます。

集合場所

JR米原駅東口が集合場所、出発点になります。ゴールはJR醒ヶ井駅です。

行程とコースタイム

このコースはJR米原駅から歩き始め、見学を含めて4時間ほどです。一部に山道があります。

昼食

歩行時間は4時間ほどですので、早めに米原駅周辺で昼食を取ってから出発することも可能です。米原駅周辺ならば、Cafe du MBF をお勧めしています。コースの途中には飲食店はあまりありませんが、息長郵便局に近い能登瀬にある丸善おくむら公式サイトはこちら)をお勧めします。人数が多い場合は安いファーストフード店ではありませんので、どちらの店も予約をしておいたほうが良いです。

丸善おくむらの「にぎわいランチ」
丸善おくむらの「にぎわいランチ」

トイレ

米原駅にあります。道中ははにわ館の中にトイレがあります。

持ち物と服装

ハイキングの服装をお勧めします。靴はハイキングシューズかスニーカーを勧めます。

ハイキング適期

年中訪れることができますが、夏の暑い時期と降雪がある時は避けるほうが良いでしょう。

近隣の見どころ

米原駅から駅東側にある太尾山城を巡るコースが2時間弱ですから、体力がある人であれば十分組み合わせることができます。

米原駅を西側に出て善光寺岩屋善光堂を訪ねてからこのコースに繋げるのもお勧めです。最寄りの国道はある国は危険ですので、ちょっと距離は伸びます。

息長から、かぶと山まで足を延ばすこともできます。こちらも+2時間ほどです。