このコースはJR南木曽駅をスタートして中山道をたどり、妻籠宿から馬籠宿までを歩くハイキング・コースです。車道を離れて昔ながらの街道が残っている部分が多く、妻籠宿、馬籠宿という昔の風情が再現された二つの宿場もあることで、人気のハイキング・コースとなっています。
多くの方は、妻籠宿・馬籠宿の間を歩くだけですが、妻籠宿とJR南木曽駅の間も歩いて楽しい区間ですので、歩くことをお勧めします。
このハイキング・コースは、馬籠宿から歩き始める方が下り坂が多くなって体力的には楽です。そのため多くの方は馬籠宿から妻籠宿へと歩きます。ただ、妻籠宿最寄りのJR南木曽駅からの列車の本数は時間帯によってかなり限られます。馬籠宿からJR中津川駅へと向かうバスは、平日でも1時間に1本あり、中津川駅からは名古屋方面に向けてかなりの本数の列車が出ていますので、交通の便を考えると妻籠宿から歩き始める方が良いです。
コースの見どころ
JR南木曽駅を出たら、しばらく中央線に沿って南下します。基本的に妻籠宿までは車道を歩きます。道が樹林の中に入っていく手前にはSL公園。かつて中央線で使われていた蒸気機関車D51が展示されています。
SL公園の脇で、JR南木曽駅からの道が旧中山道に合流します。写真手前を進むと妻籠宿。右奥へ進むと三留野宿に至ります。
街道の脇には風情のある家並みが。この辺り、風情のある家並みがあるのは、宿場跡だけではないですね。
しばらく歩くとかぶと観音。かぶと観音は、1180年に源義仲(木曽義仲)が京に上る時に、自分の兜の観音像をここに祀ったのが由来とされています。木曽義仲が腰かけたという石などもあります。かつては巴御前が袖で薙ぎ払った「袖振りの松」もありましたが、枯れてしまったそうです。
のんびりとした山村風景の中を歩いて行くと、やがて上久保一里塚。両側に塚が残っています。
その先には良寛の歌碑。良寛は江戸時代の僧侶ですが、中山道木曽路を通った時に2首詠んでいるそうです。この碑にあるのは「木曽路にて この暮れの もの悲しきに わかくさの 妻よびたてて 小牡鹿鳴くも」です。
しばらく進むと「蛇石」(へんびいし)と書かれた道標。蛇石がどこにあるのかわからず通り過ぎてしまいましたが、この道標から妻籠方面に少し進んだ左側にある大きな石のことだそうで、かつては案内の札もあったとか。今もあるのかもしれませんが、全く気が付かずに通り過ぎてしまいました。
ほぼ廃屋と化したしろやま茶屋跡を通り過ぎると、妻籠城跡への分岐。妻籠城は一説には木曽義仲の築城とありますが、多分伝説でしょう。実際には誰が築城したのか不明ですが、室町中期までには城があったそうです。戦国時代の城主は木曾義昌で、木曽氏は木曽義仲の直系を自称していたとか。木曾義昌は当初甲斐の武田に付いていたものの1582年に織田信長に寝返り。1584年の小牧・長久手の戦いでは当初徳川家康に付いていたものの、豊臣秀吉に寝返り。妻籠城を攻撃した徳川方の菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らを撃退したそうです。
妻籠城には、土橋や廓の跡などが比較的よく残されています。
やがて妻籠宿の入り口に差し掛かると道の両側に熊谷家住宅と鯉ヶ岩。熊谷家住宅は19世紀初頭に建てられた建物の一部だそうで、中が見えるようになっています。鯉ヶ岩は木曾義昌の武将がここで恋を語ったという伝説があるとか。
口留番所跡からはいよいよ妻籠宿の中心に入ります。
取材の日はおもてというお店でランチにしました。蕎麦を出す似たようなお店がたくさんありますが、ここはマイタケやタラの芽(季節限定)の天婦羅があるので。タラの芽の天婦羅たっぷり出ました。
妻籠宿のはずれには大きな藁馬があり、白い藤がきれいです。
さてここからが、このコースの佳境、妻籠宿と馬籠宿との間の中山道をたどるハイキング・コースです。ただ、このコースは「中山道歩き」の中ではお勧めということであって、「ハイキング・コース」として超お勧めというわけでは特にありません。
コースの入り口はこんな感じ。妻籠宿への観光客用の駐車場の脇に旧中山道が通っています。
しばらく歩くと「石柱道標」の案内板。明治の中頃まで中山道が使われていたことを記すものですが、肝心の道標が見当たらず。きょろきょろしていると、道のわきではなく、近くの民家の庭と思われるところに立っていました。「西京東京」という表現が面白いですね。
気持ちよく歩いていると大妻籠の集落。
道は樹林に入り、上り坂を進んでいくと牛頭観音。馬頭観音はよく見かけますが、牛頭観音は中山道でもここだけで、旧坂を荷車を引いて登った黒牛を弔うものだとか。腕が六本(六臂)は馬頭観音の特徴のようですから、馬頭観音の頭の上に牛の頭を載せたのでしょうか。
やがて倉科祖霊社。祀られているのは松本城主小笠原貞慶の重臣、倉科七郎左衛門の霊とあります。七郎左衛門は、豊臣秀吉のもとに使いに行き、その帰りに馬籠峠で対立する土豪たちに襲撃されて、討死したとか。
やがて道端に庚申塚と馬頭観音像(多分)。この先で中山道は路肩崩壊で通行止めになっていて、男滝女滝を経由する道が付けられていました。
続いて巨大な椹(サワラ)、木曽五木の一つです。推定樹齢300年。枝が途中から立ち上がっているものは神居木と呼ばれ、山の神や天狗の居場所とされてきたとか。
やがて一石栃の白木改番所跡。尾張藩が木曽から運び出される木材を監視したところです。隣には一石栃立場茶屋があり、地元の人たちがお茶をふるまってくれます。かつてはここにも集落があったそうですが、現在残っているのは江戸後期に建てられ、茶屋として使われている牧野家住宅だけだそうです。
ここから一登りすると馬籠峠。峠には茶屋があります。長い登りもここまで。ここから馬籠宿までは下り坂です。
しばらく下ると十返舎一九の狂歌碑。「渋皮の 剥けし女は見えねども 栗のこはめし ここの名物」とあります。十返舎一九は1811年に中山道を旅して、「木曽街道膝栗毛」を書いたそうです。
さらにどんどん下ると、恵那山方面の風景が開け、馬籠宿の上の陣場上展望台に出ます。なぜ陣場というのかと思ったら、1584年の小牧・長久手の戦いに際して、馬籠の宿の下にある馬籠城にいた木曾義昌を攻撃するため、飯田城の菅沼定利、高遠城の保科正直、諏訪の諏訪頼忠らがここに陣を張ったそうです。
展望台の脇には道祖神があります。道祖神が多いのは木曽路の特徴だと思いますが、実は馬籠は2005年に長野県から岐阜県中津川市へと越県して編入されています。地元の方の話だと、子どもたちの進学問題が背景にあり、近くの中津川市の高校へ進学できるように岐阜県に移ったとか。反対したのが長野県の学校の先生たちで、「島崎藤村の故郷が岐阜県に移るのは認められない」が理由だったそうです。
道を下っていくと馬籠宿。かつてはさびれ、忘れ去られた山村と化していたそうですが、地元の人たちの努力で新たな観光地としてよみがえったそうです。島崎藤村の生まれ故郷、「夜明け前」の舞台で、藤村の記念館もあります。
馬籠宿のバス停は、馬籠宿を下りきった、馬籠宿した入り口のすぐ近くにあり、ここからJR中津川駅へとバスで出られます。
集合場所
JR南木曽駅が集合場所、出発点になります。帰路は馬籠宿からJR中津川駅へのバスを利用します。
行程とコースタイム
このコースはJR南木曽駅から歩き始め、見学を含めて6時間ほどです。舗装道路と緩い山道が混在したルートです。
昼食
時間的には、妻籠宿で早目のランチを取ることになるかと思います。飲食店は馬籠宿にも数多く、また、街道の途中にも数軒の飲食店があります。
トイレ
道中ところどころに公衆トイレがあります。
持ち物と服装
街歩きではありませんので、ハイキング用の服装をお勧めします。靴はハイキングシューズかスニーカーが良いです。
ハイキング適期
年中訪れることができますが、夏の暑い時期と降雪がある時は避けるほうが良いでしょう。
コメント
“中山道 妻籠宿から馬籠宿(ハイキング・コース)” への2件のフィードバック
[…] 中山道 妻籠宿から馬籠宿(ハイキング・コース) […]
[…] この日は行きませんでしたが、馬籠から妻籠までのハイキングもお勧めです。 […]