賤ヶ岳から磯野山城跡(ハイキング・コース)

JR木ノ本駅麓の集落を経て賤ヶ岳に登り、そこから中部北陸自然歩道にもなっている、余呉湖賤ヶ岳山本山歩道をハイキング。途中で東側の尾根に入り、磯野山城跡を経てJR高月駅に出ます。

このハイキング・コースの地図はこちら


余呉湖賤ヶ岳山本山歩道は山本山まで歩いていくことができます。距離は長くなりますが、登山道は整備されていますから、山本山まで行くルートもお勧めです。このハイキング・コースは、西野山のあたりで山本山への道から外れます。磯野山城跡を示す道標がありますが、道は不明瞭で藪漕ぎを伴います。山なれない人ですと、道を間違える可能性も大です。地形図が読めない人がガイドなしで磯野山城方面へ向かうことは、現状お勧めできません。また分岐点には「磯野山城跡片道20分」とありますが、20分では磯野山城の主郭跡にたどり着くことは到底できませんので注意してください。

磯野山城自体は、思った以上に大規模な山城で、山城に興味のある方は一度訪れてみると良いでしょう。ただ、登山道が整備されていないので、特に草木が茂る時期はお勧めしません。

コースの見どころ

JR木ノ本駅からは、北国街道の通る東側ではなく、西側に出て西に向かって道をまっすぐに歩いていきます。長浜市立湖北病院を過ぎると、遮るものなく賤ヶ岳と、それに繋がる山並みが見えてきます。

賤ヶ岳の山並み
賤ヶ岳の山並み

やがて八幡神社のあたりで余呉川を渡ります。桜の頃に来るときれいでしょうね。取材時はちょっと遅かったです。それにしても滋賀には八幡神社が多いですね。

余呉川
余呉川

大音の集落に入るところに伊香具神社(いかぐじんじゃ)一の鳥居があります。ここの桜は満開できれいでした。

伊香具神社 一の鳥居
伊香具神社 一の鳥居

伊香具神社は延喜式にも名前が見える、由緒ある神社です。伊香具神社のホームページから由緒を一部抜粋します。古代この辺りには伊香氏という豪族がいたようです。

「伊香」と書いて古くは「いかご」あるいは「いかぐ」と発音しました。ですから万葉集ではこの背後の山すなわち賤ケ岳(しずがたけ)連山を伊香山と書いて、いかご山と読ませています。そしてその名は『古事記』に出てくる火の神「迦具土神」(かぐつちのかみ)の徳を受けられたところからきているようで、そのことはこの社のすぐ後ろの山の小字名を「かぐ山」とよび、また摂社に有る「意太神社」の御祭神が「迦具土神」となっていることからも証明されます。それで昔からこの神社は「火伏せの神」「防火の神」としての信者が大変多く、特に火をよく使う商売の人々の間にその霊験は大変あらたかといわれています。

 九世紀の後半当神社の神官で伊香津臣命から第十六代目にあたる伊香厚行という人は、中央政府でも活躍され菅原道真公との親交が有りました。菅原道真公は幼小の時この北方の余呉にある菅山寺という寺で修業されたこともあって、この伊香具神社を厚く信仰され自筆の法華経、金光明経を奉納されました。また宇多天皇に申し上げて「正一位勲一等大社大名神」の額を賜りました。

https://ikagu-jinjya.com/history/

取材時に本殿は修復中でした。また伊香具神社には、背後の山に磐座信仰に繋がると思われる奥宮があるそうなので、機会があれば訪れたいと思います。

伊香具神社の鳥居は伊香式鳥居と呼ばれる独特のものです。境内にあった案内板によると、「奈良の三輪式鳥居と安芸の厳島式鳥居が組み合わさった様な形をしている。その昔、この神社のすぐ前が伊香小江と云う入江であり後方の山が伊香山とよばれた神奈備(注・神が宿る場所のこと)であったので、これら湖の神様と山の神様にあわせ捧げる意味でこの鳥居が作られたものです。」だそうです。

伊香式鳥居
伊香式鳥居

伊香氏がいたから、この地、大音の集落は栄えていたようで、あちらこちらに寺院跡などの看板が立てられています。かつての大音は、浄明寺という寺院を中心に、長安の都をモデルに村造りされていたとか。今は静かな山里ですが、趣のある山里です。

集落の中、浄明寺の山門跡地にある大音大日如来堂に祀られる大日如来像は、賤ヶ岳の戦いの時に周囲の寺社がすべて焼ける中、かろうじて残ったものだとか。大日如来堂から上に向かい、野生動物除けの柵の門扉を開けて山の斜面を上がっていくと、今は看板だけの浄明寺旧跡があり、その奥に小さな社殿だけの意太神社(おふとじんじゃ)があります。

意太神社
意太神社

神社の由緒は現地の案内板によると以下です。

今から一千三百年前に伊香津臣命が古事記に出てくる(火の神・迦具土)の徳を受けられ崇拝されていた神様です。(火の迦具土神)とは、火の神であると同時に火がなくては成り立たない金属精錬や陶器に製造に最も重要な神様です。この後方の山は香具山と言い鉄岩石を産し、また木之本町土倉村には銅鉱もあり古橋村や 西浅井町の日計山麓の大川に沿って多くの製 鉄遺跡郡も発掘されています。また、余呉町丹 生村では良質の粘土も産出し現在でも茶碗祭りが無形文化財として残っています。古代豪族伊香氏は姉川以北を支配しており製鉄に力を入れ、鏡・武具・農具の生産にはげみ伊香の小江を開拓し湖北の神聖なる香具山の麓に小京都として大音の村を築きました。その村名も意太からやがて大音になったと思います。

現地の案内板

少し歩くとすぐに賤ヶ岳登山口。リフトの乗り場でもあります。賤ヶ岳の名称の由来についての看板があり、弘法大師の話が書かれていますが、行基が出てくる由来話もあり、賤ヶ岳の名前の由来ははっきりしないようです。この二人はあちらこちらの伝承に登場しますからね。

賤ヶ岳リフト乗り場(登山口)
賤ヶ岳リフト乗り場(登山口)

登山道はおおむね植林地帯の中を進みます。リフトの終点である尾根に登りつくと、反対側には美しい琵琶湖の風景、塩津湾が広がっていました。琵琶湖の最北端のあたりですね。

琵琶湖
琵琶湖

ここから賤ヶ岳の山頂を往復します。途中には賤ヶ岳の戦いの死者をまつるお堂が。元々あちらこちらに点々とあった五輪塔などを、一ヶ所に集めて供養するようにしたものだとか。

賤ヶ岳の戦いの死者をまつるお堂
賤ヶ岳の戦いの死者をまつるお堂

ここから賤ヶ岳山頂までは急斜面です。明らかに人の手が加えられた地形ですが、登山道や公園の整備などでかなり改変されてしまっているとか。

賤ヶ岳の南側
賤ヶ岳の南側

賤ヶ岳の頂上から南を見るとこんな感じ。左側の尾根はこれから歩いていくところです。手前には、土塁らしきものも確認できます。賤ヶ岳には賤ヶ岳の戦い当時、砦があり、豊臣方の桑山重晴が守りについていました。賤ヶ岳の戦いは、織田信長亡き後に豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と柴田勝家とが覇権を競った戦いで、賤ヶ岳の戦いと呼ばれるものの、実際には周囲一帯で行われたものです。

賤ヶ岳から南をのぞむ
賤ヶ岳から南をのぞむ

北を見ると余呉湖。馬蹄形に余呉湖を囲む尾根を一周するハイキングも楽しそうです。

賤ヶ岳から余呉湖
賤ヶ岳から余呉湖

賤ヶ岳を後に、登って来た道をリフトの終点まで戻ります。ここからは余呉湖賤ヶ岳山本山歩道をたどります。ここは中部北陸自然歩道にも指定されています。地図で確認するとわかりますが、賤ヶ岳から南に延びる尾根は、琵琶湖沿いに標高を下げつつ、ずいぶん長く続いています。その最南端が山本山で、ここには山本城跡もあります。余呉湖賤ヶ岳山本山歩道はずっと整備された道です。

余呉湖賤ヶ岳山本山歩道
余呉湖賤ヶ岳山本山歩道

道はずっと尾根上を進みます。地図や案内板には記されていないですが、尾根のところどころには明らかな堀切などの山城の防御施設の跡が何か所もあります。

しばらく進むと西野山330mの看板がありますが、特に目立つピークはありません。そのすぐ先に、磯野山城跡へ向かう道を示す道標があります。この道標から余呉湖賤ヶ岳山本山歩道を外れて南東に向かう尾根を下るのですが、この道は全く整備されておらず、ひどいです。

磯野山城跡へ向かう道を示す道標
磯野山城跡へ向かう道を示す道標

時折出てくる目印のビニールテープを頼りに、かなりの部分藪をかき分けて踏み跡をたどると、すぐにいくつもの山城の施設跡が出てきます。

やがて、少し小高いところに主郭と副郭。看板がありますが見落としそうです。

そこからさらに尾根をたどります。この辺りは堀切だらけ。斜面を登ってくる敵を防ぐためだったのでしょうか。一部には石垣跡のようなものもありますが、定かではありません。

最後に下り着いたところ(登山口)も大堀切のようになっています。

磯野山城登山口
磯野山城登山口

磯野山城は築城の年は明確ではないですが、戦国時代に京極氏に仕えていた磯野員友あるいは磯野員精が築城したと言われています。磯野山城が磯野氏の居城になっていました。1517年に京極氏に代わって力を持った浅井亮政が京極高清を小谷城に幽閉したときに、磯野員栓と子の磯野為員は磯野山城に籠って浅井氏と戦いました。1532年に磯野為員が討ち死にし、浅井氏に屈服、磯野氏は磯野員吉が継いで浅井氏の家臣となり、佐和山城に入りました。代わりに磯野山城には浅井氏の家臣、大橋秀元が入りました。

さて動物除けの柵に沿って進むと、扉があります。そこを開けて外へ出ると、余呉川に沿った水田に出ます。ダニが一匹ついていました。写真左の斜面上の尾根に磯野山城があります。

余呉川
余呉川

余呉川を渡り、集落に入っていくと売比多神社があります。ここも延喜式神名帳に比賣多神社として出てくる由緒ある神社です。この一角に松尾芭蕉の句碑「八九間空で雨降る柳かな」がありますが、特にこの地が芭蕉にゆかりがあるというわけではないようです。

売比多神社
売比多神社

そのすぐ近くには長命寺薬師堂。長命寺は平安時代末期から鎌倉時代にかけての建久年間(1190~1199)に、武将藤原資通の護持仏を以って創建されたそうです。お堂の中をのぞいても薬師如来像は見られませんでした。

長命寺薬師堂
長命寺薬師堂

このあたりの地域は旧古保利村のようですが、水路と古い家並みがきれいです。

古保利の家並み
古保利の家並み
古保利の水路

集落を抜けると、水田の中にポツンと見えるのが姫塚古墳。全長約64mの前方後円墳ですが、前方部は土が削られてしまっていて原形をとどめていません。

姫塚古墳
姫塚古墳

ここからJR高槻駅まではひたすら歩くことになります。

集合場所

JR木ノ本駅が集合場所、出発点になります。ゴールはJR高月駅です。

行程とコースタイム

このコースはJR木ノ本駅から歩き始め、見学を含めて5時間ほどです。距離的には13kmあまりですが、山道で時間がかかります。

昼食

JR木ノ本駅及びJR高月駅周辺には飲食店がありますが、それ以外にはありません。弁当持参をお勧めします。

トイレ

賤ヶ岳の登り口にトイレがあります。賤ヶ岳頂上にはエコトイレがありますが、寒い時期は使用できません。

持ち物と服装

軽登山靴をお勧めします。

ハイキング適期

晩秋から初春、桜が咲くころまでをお勧めします。気温が上がるとダニなどが出てきます。冬季は雪次第です。

近隣の見どころ

木ノ本駅周辺の木之本宿の見学ができます。