JR垂井駅からかつての青野ヶ原周辺に点在する古代の史跡を巡ハイキング・コースです。美濃国府跡、美濃国分尼寺跡などを巡りますが、圧巻は何と言っても美濃国分寺跡でしょうか。その広大さに驚かされます。古墳も多く、かつてこのあたりが美濃国の中心であったことがよくわかります。
垂井は中山道の垂井宿で、美濃路の起点でもありました。関ヶ原も近く、戦国時代から江戸時代の史跡も豊富ですが、このコースは主にそれ以前の史跡をたどります。
延長13kmくらいですが、史跡と史跡の間はひたすら車道を歩きますので、高低差がないにもかかわらず思ったよりも疲れます。
コースの見どころ
垂井駅前では竹中半兵衛の像が出迎えてくれますが、このコースは半兵衛よりも千年前後前の史跡を訪ねます。
まずは、垂井駅と中山道との間にある住宅街の細い道に入り、紙屋塚を訪れます。現在美濃和紙と言えば、岐阜県美濃市が有名ですが、奈良時代には垂井の地に、美濃国府による官設の紙工房があったようです。奈良の正倉院に残されている紙によって、当時の美濃産の紙は最高級とされ、平安時代まで紙に関する記録があるようです。
その次に訪れるのは東町鳳凰山格納庫と中町紫雲閣格納庫。コースからそれている西町の攀鱗閣を加えた三台が、垂井曳山祭りに登場する山車です。垂井曳山祭りは八重垣神社の祭礼ですが、南北朝時代の1353年、南朝軍に追われた北朝の後光厳天皇が垂井の長屋氏の屋敷などに滞在した折に、慰めるために始まったとされています。
ここから相川を渡って、美濃国府跡を目指します。美濃国府跡は今では草原に案内板があるだけです。花壇は発掘調査で見つかった構造物があった場所を示しています。
美濃国府跡の北にある神社は、美濃國総社 南宮御旅神社と白鬚神社。白鬚神社は猿田彦を祭るもので、かつては山沿いの字葉生という場所(今は地名がなくなったようです)にあったものを、昭和30年代にこの地に合祀したようです。南宮御旅神社は美濃国府に隣接することから、國府の宮(美濃国内の神々を代表する神社)として創建されたとされています。祭神は古事記に登場する金山姫神で、美濃一宮の南宮大社に祭られる金山彦神の妻です。
続いて向かうのは忍勝寺山古墳です。直径約60mある帆立貝式古墳だそうです。面白いのはGoogle Mapで見るとわかりますが、周溝部分にきれいに民家が並んでいるところ。こちらから確認してみてください。頂上部は平坦で、地蔵堂があり、周囲から集められたと思われる五輪塔が並べられています。
続いてもう一つ別の古墳を訪れます。東に向かって集落の中を抜けていくと喪山古墳。遠目には結構大きな古墳に見えますが、どうやらこれは自然の丘陵で、古墳はこの上に円墳あるいは前方後円墳があるようです。登り口は反対側らしく、登るのはあきらめました。伝承では古事記・日本書紀の国譲り神話に登場する天稚彦の墓(喪山)とされているそうです。ただ、天稚彦伝説の喪山の伝承は美濃市の大矢田神社周辺にもあるようで、そちらのほうが関連する地名も多く、垂井町の喪山古墳は少々分が悪いような気が。
次は、北東方向、低い尾根が平野に突き出したように見えるところに向かって進みます。尾根の鼻にあるのが蓮如上人御廟所。蓮如は浄土真宗の僧侶で、本願寺を中興した人ですが、亡くなったのは自らが創建した山科本願寺とされていて、御廟所もそちらにあります。調べると、蓮如上人御廟所は何か所かあるようで、あちらこちらのゆかりの地にも祀ったものでしょうか。ちかくにある平尾御坊願證寺は蓮如の子孫がかかわった寺だそうですから。
平尾御坊を訪れる前に、県道の下をくぐって平尾神社へ。平尾神社の上の尾根には古墳群があるそうなので、平尾神社も歴史が古いものかと思ったら、1687年創建だそうです。願證寺(当時は眞德寺)がこの地に建てられたのが16世紀末だそうですから、平尾神社はそれ以降に創建されたものですが、関連性はわかりません。
願證寺には寺の裏手から入りましたが、立派な土塁があって驚きます。この土塁は、近くの美濃国分尼寺のものだとする説もあるようですが、願證寺がこの地にできたのが戦国時代末期、願證寺の前身だった寺は、伊勢長島にあって長島一向一揆のおりに織田信長に徹底的に破壊されていますから、新しい地でもそれなりの防御を固めたのではないでしょうか。願證寺の歴史についてはこちらを参照してください。
願證寺は三つの建物が垂井町の指定有形文化財になっています。鐘楼は1655年、山門は1743年、本堂は1760年のものです。
願證寺の近くには美濃国分尼寺跡があります。名残は何もなく、標柱のみです。「推定値」とありますから、あまり周辺の発掘もされていないのかもしれませんね。
美濃国分尼寺から美濃国分寺跡を目指しますが、途中に竪田古墳があります。竪田古墳は交通量が多い県道216号線のすぐわきにあり、周辺は竪田遺跡として発掘調査が行われており、発見されたものは縄文時代・古墳時代・奈良時代・平安時代・中世・近世に及ぶそうです。竪田古墳自体は、石室が露出しており、原形をとどめていないようです。
さていよいよこのハイキング・コースのハイライトである美濃国分寺跡。Google Mapで見てかなりの大きさと思っていましたが、現地で見ると広いです。写真中央は塔跡ですが、高さは58mあったと推定されるとか。疎石も巨大です。ただ、建物の復元などはありませんので、広大な跡地が広がっているだけです。
美濃国分寺跡の北には大垣市歴史民俗資料館があります。ここでは、美濃国分寺だけでなく、周辺地域の歴史や民俗文化を学ぶことができます。
さらに北側の山の斜面にあるのが現在の美濃国分寺。本尊は国の重要文化財である木造薬師如来坐像です。3mもある一木彫で、平安時代の作とされていますが、寺では旧美濃国分寺の本尊で、奈良時代の旧国分寺創建時に行基が彫ったものとされています。
美濃国分寺から南下して、中山道を渡る手前にあるのが教覚寺。ここは、青野藩主稲葉正休に所縁の寺だそうで、本堂は関ヶ原の戦いで焼けたものを稲葉家が再建したとか。稲葉正休(いなばまさやす)は幕府の若年寄にまでなりましたが、1684年に江戸城中で大老の堀田正俊を刺殺するという事件を起こし、その場で切り捨てられたそうです。
教覚寺のすぐ南側を中山道が通っています。中山道を越えて南下し、次に向かうのは矢道高塚古墳と矢道長塚古墳です。矢道高塚古墳のほうは前方後方墳と考えられますが、採土されてしまい、消失して記念碑が残るのみです。少し離れたところにある矢道長塚古墳は前方後円墳で、保存されていますが整備はされていません。どちらからも鏡などが出土しているそうです。
二つの古墳からさらに南に向かい、JR沿いにあるのが矢道ハリヨの池広場。JR東海道線に乗っていると見える池で、以前から気になっていたところです。このあたりの湧き水にハリヨが生育しているそうです。ただ、訪れた時には大きなシラサギが池の中におり、ハリヨは食べられたりしないのでしょうか。池を覗きましたが、ハリヨは見つけられませんでした。
次はJR沿いに西に進みます。そこに祠が一つあります。これもJRから見て気になっていたものです。神社のようですが鳥居もなく、なんだろうと思っていましたが、樽井町指定の史跡で、岡田将監塚というそうです。この祠は1935年に建てられたものだそうで、古いものではありませんでした。岡田将監善政は、江戸時代の初期に美濃国奉行となり関ヶ原の戦いで焼失した南宮神社の再建や、村境を決める争いの解決に尽力したそうです。江戸時代初期の貢献を昭和に入ってから記念して祠を建てた理由はわかりません。
次に訪れるのは綾戸古墳です。古墳時代末期の円墳で、保存状態が良いです。武内宿禰の墓という伝説があります。
綾戸古墳の少し南側を通る道が旧美濃路です。このあたりから垂井へ向かって歩いていくと両側に松の木が並んでいます。ここが美濃路で唯一松並木が残る美濃路の松並木。
取材の日は、このあたりでお昼を過ぎたので、松並木から少し北に入ったところにあるかっぱという小さな居酒屋風のお店でランチにしました。この後は、垂井駅へ向かってゴールです。
集合場所
JR垂井駅が集合場所、出発点、そしてゴールになります。
行程とコースタイム
このコースはJR垂井駅から歩き始め、見学を含めて5時間ほどです。ところどころの農道などを除き、すべて舗装された道を歩きます。
昼食
一旦垂井の町から出ると、再び垂井周辺に戻ってくるまで飲食店はありません。
トイレ
垂井駅のトイレは改札の中にも外にもあります。道中は大垣市歴史民俗資料館に公衆トイレがあります。
持ち物と服装
街歩きの服装で大丈夫です。靴はスニーカーを勧めます。
ハイキング適期
年中訪れることができますが、夏の暑い時期と降雪がある時は避けるほうが良いでしょう。
近隣の見どころ
美濃国分寺跡あたりから中山道を歩いて美濃赤坂宿を目指すこともできます。また時間があれば、垂井から西に向かい、関ヶ原宿も行けない距離ではありません。そこまで歩きたくなければ、垂井の駅から南宮大社や真禅院の見学がお勧めです。
コメント
“垂井から古代の史跡巡り(ハイキング・コース)” への2件のフィードバック
[…] に出ました。美濃国分寺の様子はこちらを、垂井までの中山道の様子はこちらを参照してください。 […]
[…] 垂井から古代の史跡巡り(ハイキング・コース) 投稿者 tanzan投稿日: 2022年1月10日2024年7月31日カテゴリー 一般 […]