中山道関ケ原宿から垂井宿、南宮大社(ウォーキング・コース)

評価 :4/5。

中山道関ケ原宿から垂井宿までたどり、垂井では美濃一ノ宮の南宮大社と、朝倉山真禅院を訪ねます。道自体は舗装道路で変化に乏しいですが、所々に長い歴史を持つ街道ならではの史跡が点在しています。


関ケ原宿は中山道が国道になっており、昔日の面影を残していませんが、一旦関ケ原宿を抜けると、風情のある街道が続きます。

垂井はあまり知られていない町ですが、美濃国の一ノ宮である南宮大社があり、歴史の古さを感じさせる地です。

コースの見どころ

JR東海道線関ケ原駅から南に向かうとすぐに国道21号線。これがかつての中山道関ケ原宿ですが、今は交通量の多い、歩きにくい道になっています。東に向かって歩道を進むと、古民家風の家の壁に「関ケ原たまり」の文字。ここは関ヶ原醸造株式会社で、文字通りたまり醤油を作っています。関ケ原たまりはネットでも購入できます

関ケ原たまり
関ケ原たまり

街道沿いをしばらく歩くと真宗大谷派 法忍寺。きれいに手入れされたお寺ですが、特に歴史に残る由来がある寺ではないようです。ただ、もう少し南にある十九女池(つづらいけ)にまつわる伝説に登場するお椀が、法忍寺に保管されているとか。

真宗大谷派 法忍寺
真宗大谷派 法忍寺

法忍寺の東にあるのが若宮八幡神社。応神天皇、神功皇后、仁徳天皇が祀られていて、関ケ原合戦で社殿が焼失した記録があります。創建の時期はわかりません。応神天皇は誉田別命(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、八幡神とされています。若宮八幡神社には十九女池伝説に登場する笛が保管されているとか。

若宮八幡宮
若宮八幡宮

若宮八幡神社から国道をしばらく東に歩くと、やっと旧中山道と国道21号線が分かれます。分かれてすぐのところにあるのが馬頭観音。Google Mapには当初「地蔵堂」とありましたが、実物を見てみたら地蔵ではありませんでしたから、Google Mapで訂正を依頼しました。馬頭観音は旅人や馬の守り神で、街道筋にはよくある石仏です。

関ヶ原宿の馬頭観音
関ヶ原宿の馬頭観音

両側に黒松が植えられた、ちょっと昔風の道を歩いていくと信号に出ます。旧中山道はここから国道の北側を通りますが、一旦国道沿いに歩いて関ケ原の合戦徳川家康最初陣跡を訪問。この辺りは桃配山(ももくばりやま)と呼ばれるそうですが、壬申の乱の時に大海人皇子が兵にヤマモモを配って部隊を鼓舞したところから名づけられたとか。徳川家康もその故事に習って桃配山に布陣したとも言われているそうです。

徳川家康最初陣跡
徳川家康最初陣跡

旧道に戻ってしばらく進むと、街道の南側に公園のようなスペースが作ってあり、そこが六部地蔵。六部地蔵についての解説はこちらをどうぞ。

六部地蔵
六部地蔵

六部地蔵から少し進むと山内一豊陣跡山内一豊は東軍としては関ケ原の東の端に布陣しており、関ケ原合戦でもあまり活躍はしなかったようですが、南宮山に布陣する西軍の毛利秀元長宗我部盛親らに備えていたそうです。

山内一豊陣跡
山内一豊陣跡

この後中山道は野上の集落に入りますが、野上の集落には歴史のありそうな旧家・古民家がちらほら残っています。

野上の旧家
野上の旧家

野上の集落から、いくつか寄り道をします。まずは細い道を南に入り、国道21号線を渡ったところにある真念寺。ここは世阿弥が謡曲にした、班女の観音堂(はんじょのかんのんどう)で知られている寺です。寺自体は一度織田信長の兵火で焼かれ、その後再建されたようです。班女の観音堂に関してはこちらも参考にしてください。

班女の観音堂
班女の観音堂

真念寺の東側の細い道を山の方へ向かって行くと墓地が。五輪塔や古い墓石が集められているところを見ると、相当古くから墓地として使われていたところのようです。

真念寺裏の墓地
真念寺裏の墓地

さらに登ると、野上行宮跡(のがみあんぐうあと)。当初Googleマップ上の名称が天武天皇野上行宮跡となっていたので、天武天皇がここに来られたのかと思ったら、そうではなく、壬申の乱の折に後の天武天皇、大海人皇子が一時的な宮殿である行宮(あんぐう)をこの辺りに建てて、本陣としたと言われています。天武天皇になられてから当地に滞在したわけではありませんから、Googleに連絡して大海人皇子野上行宮跡に変更してもらいました。野上行宮跡の看板の左に石垣がありますが、これは後にこの地に建てられた寺のものかもしれません。周囲は草に覆われていて、暑い時期はダニに注意。

野上行宮跡
野上行宮跡

野上行宮跡から元来た道を戻り、国道を渡って細い道を通って中山道に出ます。そこにあるのが七つ井戸。かつて野上の集落は、垂井宿と関ケ原宿の間の宿でした。街道筋にある「野上の七つ井戸」は当時旅人に親しまれていたそうで、その井戸を修復・再現したのが現在見る七つ井戸です。飲料水ではないとのこと。

野上の七つ井戸
野上の七つ井戸

「野上の七つ井戸」からは北に向かって細い道が民家を縫うように入っています。このいかにも古そうな道をたどると、JR東海道線脇にあるのがしゃもじ塚。これは平安時代の武将で、平将門の孫、平忠常の墓です。平忠常は乱を起こして敗れ、京へ護送される途中にここ野上で病死しました。病死する前に哀れんだ村人がしゃもじに食物を乗せて差し出すと喜んで食べたとか。まだ街道が中山道ではなく東山道と呼ばれていた時代ですね。

しゃもじ塚
しゃもじ塚

井戸まで戻って、道を東へと向かうと、伊富岐神社の鳥居が。伊富岐神社は美濃の二宮です。街道沿いの鳥居から伊富岐神社までは900mほども離れていて、とても長い参道ですので、取材の日には立ち寄りませんでした。

伊富岐神社鳥居
伊富岐神社鳥居

垂井には美濃国の一ノ宮である南宮大社、二ノ宮である伊富岐神社があり、もう少し北には美濃国府も設けられていましたから、古代には美濃の中でも先進地、中心地だったのでしょうね。現代だと岐阜市が中心というイメージがありますが。

この先中山道は短い区間ですが、一旦国道21号線を南に渡ります。そこにあるのが垂井一里塚。片側だけですが、見事な一里塚が残っています。垂井の一里塚を見ると、一里塚は意外と大きなものであったことがわかります。国の史跡に指定されている中山道沿いの一里塚は二つしかないとか。

垂井一里塚
垂井一里塚

また垂井一里塚のあたりは、関ケ原の合戦時には浅野幸長が陣を置きました。浅野幸長は秀吉に仕えた五奉行の一人、浅野長政の長男です。幸長は南宮山に陣を構えた毛利秀元らに備えていたと考えられます。

しばらく進むと、角に「南宮江近道八丁」と書かれた道標が。南宮大社への近道のようですが、まずは垂井宿を目指します。

南宮江近道八丁
南宮江近道八丁道標

街道は再び国道21号線の北へと渡り、その辺りからが垂井宿のようです。やがて愛宕社のあるあたりに西の見附の看板。

垂井宿西の見附
垂井宿西の見附

垂井宿内では所々の家に、かつてどのような家業を営んでいたのかを示す看板が付けられています。

やがて東光山本龍寺、浄土真宗大谷派の寺院です。起源はわからないそうですが、。本龍寺は松尾芭蕉が元禄4年(1691)に一冬滞在したという寺です。その時に詠んだというのが

「作り木の庭をいさめる時雨かな」

書院の玄関や山門は垂井宿の脇本陣から移築したものだそうで、山門の前には高札場が復元されています。

本龍寺山門と高札場
本龍寺山門と高札場

1809年に本龍寺の住職の里外と、俳人の白寿坊が芭蕉の句にちなみ「作り木塚」と名付けて作った、句碑が並んだ一角があります。一番奥が芭蕉の句碑です。

本龍寺の作り木塚
本龍寺の作り木塚

さて本龍寺の斜め向かい側にある古い民家が小林家住宅。江戸後期から残るとされている町屋です。

小林家住宅
小林家住宅

垂井宿を更に進むと、石の鳥居が現れます。これが南宮大社の石鳥居で、国の重要文化財です。関ケ原の合戦で焼けた南宮大社は1642年に徳川家光の寄進で再建されましたが、その時に建てられたものです。

南宮大社鳥居
南宮大社石鳥居

垂井宿は東にもう少し伸びていますが、ここから南宮大社の参道をたどります。すぐにあるのが垂井の泉。垂井の泉は古くから知られており、垂井の地名もこの泉が語源になったという説もあります。

垂井の泉
垂井の泉

垂井の泉の南側に専精寺という寺がありますが、かつてこの辺りに垂井城がありました。今では碑があるだけで、垂井城の痕跡もほとんど残っていないそうです。垂井城は関ケ原の合戦で西軍大谷吉継と共に戦った平塚為広の居城でした。平塚為広は関ケ原の合戦で討ち死にしています。ちなみに平塚らいてうは子孫だそうです。

垂井城跡の碑
垂井城跡の碑

JR東海道線、国道21号線、そして東海道新幹線の高架を過ぎるとやがて南宮山として知られる南宮大社。美濃国一宮です。「(美濃の)国府の南に位置する宮」ということから、南宮と呼ばれるようになったとされています。鉱業の神で、鉱山を司どる神金山彦命が祭神です。

起源は不明ですが、1501年に火災で焼失。再建後今度は関ケ原の合戦で焼失。1642年に徳川家光の命で再建されました。本殿、拝殿、樹下社、高山社、隼人社、南大神社、七王子社を始め、数多くの重要文化財があります。(南宮大社のホームページはこちら

南宮大社拝殿
南宮大社拝殿(重要文化財)

南宮大社に参拝したら、北側の道を西方向に進みます。岐阜県立不破高等学校の西にあるのが吉川広家陣跡吉川広家(きっかわひろいえ)は南宮山に布陣した毛利輝元の一族で、関ケ原の合戦の折には西軍でしたが、徳川家康と内通しており、毛利軍の参戦を押しとどめたとされています。

吉川広家陣跡
吉川広家陣跡

南宮大社には、明治の神仏分離令以前には神宮寺があり、それが朝倉山真禅院です。神仏分離令が出されたことによって南宮大社から離れ、900mほど西に移りました。寺伝では739年に行基が創建したとされています。三重の塔、本地堂、梵鐘は国指定の重要文化財です。文化財についてはこちらを参照。

朝倉山真禅院の三重の塔
朝倉山真禅院の三重の塔

朝倉山真禅院からは、JR垂井駅を目指しますが、道中には山の神が祀られていたり、駅近くの辻に1379年の宝篋印塔が残されていたり、歴史を感じさせるのが垂井の町です。

垂井の宝篋印塔
垂井の宝篋印塔

集合場所

JR関ヶ原駅が集合場所、出発点になります。ゴールは垂井駅です。

行程とコースタイム

このコースはJR関ヶ原から歩き始め、見学を含めて4時間ほどです。ほぼすべて舗装された道を歩きます。

昼食

並行する国道21号線沿いには飲食店があります。南宮大社周辺の飲食店は平日閉まっていますし、あまりお勧めではありません。

トイレ

道中は徳川家康最初陣地の周辺と、南宮大社に公衆トイレがあります。街道沿いにはほぼありません。

持ち物と服装

街歩きの服装で大丈夫です。靴はスニーカーを勧めます。

ハイキング適期

年中訪れることができますが、夏の暑い時期は避けるほうが良いでしょう。

近隣の見どころ

関ケ原の戦跡をいくつかまわってから、このコースを歩くこともできます。

体力と時間に余裕がある人は、南宮山のハイキング・コースも良いでしょう。

また垂井の町中には今回のコースには入っていない史跡などもあります。春王丸・安王丸の墓、その近くの池田輝政陣跡などはちょっと足を延ばして訪問できます。

Post Author: ガイドマスター