タグ: 横河の古戦場跡

古代不破道(のちの不破の関?)が置かれていた交通の要衝であった関ケ原周辺の地峡地帯は、壬申の乱の舞台としても有名です。壬申の乱は関ケ原の合戦のはるか昔で、日本書紀以外の記録も曖昧なため、記録上の地名がどこに該当するか議論の残るところではありますが。

壬申の乱は、672年に勃発した古代最大の内乱です。天智天皇(大化の改新を主導した中大兄皇子)の子ども大友皇子と、弟の大海人皇子(後の天武天皇)との間で、天智天皇の後継の皇位を巡って起きました。当時の皇位継承は、親子よりも兄弟が優先されていたそうですが、天智天皇が自分の息子を皇位に付けるため、大海人皇子を狙ったことが発端とされています。

両軍は672年に横河にて激突し、大海人皇子軍の優勢が決定的になりましたが、この横河と比定されている場所の一つが醒井宿のはずれ、上丹生川にかかる息長橋のあたりで、案内板が立っています。

ただし、別の説では柏原に近い、梓河内地区内の梓川沿いが横河であるという説もあります。