このコースは、奈良時代に三河国の国府や国分寺、国分尼寺などが置かれていた、古代三河の中心地を巡るウォーキング・コースです。3時間ほどで周ることができる、歴史好きにはお勧めのコースです。名鉄国府駅から歩き始め、東側に集中する史跡を巡って名鉄国府駅に戻ってきます。
コースの見どころ
名鉄国府駅を出たら、東に向かいます。まずはすぐ近くの船山古墳から。三河地方東部では最大級の前方後円墳で、古墳時代中期のものだそうです。付近に三河の国府などが作られたことを見ると、古墳時代には既に大和の影響を受けた有力な豪族がいたことを伺わせます。
船山古墳から東に住宅街を歩いていくと、西古瀬川に出ます。このあたりは河津桜の名所です。取材時は満開を過ぎたところで、ちょと葉桜になってきてしまっていましたが、川べりの名の花も相まって、なかなか美しい景色でした。
その後、地図にある旧八幡砦跡を目指しましたが、地図の場所には墓地があるだけで、どこなのかよくわかりません。発掘記録などを調べてみると、どうやらあたり一帯がかつては土塁に囲まれた砦だったようですが、すでに開発でほとんどは失われているとか。
八幡砦の歴史は、調査記録から引用しておきます。今川氏と徳川氏とが争った場所だったようです。
永録3年 (1560年)の 桶狭間の戦いで今川義元が討たれてから、いったん駿河 (静岡)に引き返した今川氏が、東三河進出を図りだした松平(徳川)を意識 して構築したのがこの八幡砦です。
平成 15年 度国分寺北遺跡 (八幡砦跡)発 掘調査の概要
今川氏は家督を氏真 (うじざね)が 継ぎ、吉田 ・牛久保を防御するための前線基地 としてこの八幡砦と、御津町に佐脇砦を構築したと考えられています。
岡崎方面から東海道を通って御油にでる敵には八幡砦、沿岸からの敵には佐脇砦が配置され、八幡砦には板倉弾正重定が、佐脇砦には三浦左馬助義就が城の守りとしてそれぞれ配置されたと言われています。
永禄 5年 (1562年)9月にこの両砦において大きな合戦がありました。
松平元康 (徳川家康)の家臣酒井忠次が一千余騎の兵を率いてこの両砦を攻めました。守りにあたった板倉弾正重定と三浦左馬助義就が応戦し、また二連木城主戸田康重らや、牛久保城主牧野保成らが反撃し、いったん酒井の軍勢は御油まで退きました。
新たな兵を引き連れてきた松平勢は軍勢を立て直し、反撃にでて、板倉弾正重定らを討ち、勢いに乗った松平勢は、八幡砦と佐脇砦を攻め取り、戸田は二連木城に、牧野は牛久保城に逃げ帰ったとされています。
もう少し東に向かって歩くと三河国国分尼寺跡。ここは発掘調査が進んで礎石などが復元されています。発掘された国分尼寺跡としては最大級のものだとか。建物で復元されているのは、写真にある中門だけです。
国分尼寺跡の脇には三河天平の里資料館があり、無料で出土品などを見学できます。
続いて三河国国分寺跡。こちらは国分寺という名前の寺が現存するものの、かつての伽藍は国分尼寺ほど整備が進んでおらず、ぽつりぽつりと立っている看板が、かつて施設があった場所を示しています。こちらは平安時代の梵鐘が残っており、国の重要文化財に指定されています。
国分寺塔跡からすぐに西にあるのが、八幡宮。白鳳時代7世紀半ばに宇佐八幡宮から勧請されたとされています。本殿は国指定の重要文化財です。
八幡宮から西古瀬川を越えると上ノ蔵遺跡。現在は埋め戻されていて見ることはできませんが、古代の道が出土したそうです(発掘調査資料はこちら)。現在は公園になっています。
上ノ蔵遺跡から国府駅方面に向かい、姫街道を横断して旧街道っぽい道を進むと道の北奥に曹源寺。現在曹源寺となっているあたりが、三河国府跡だとか。それらしいものは何もありません。
三河国府跡のすぐ隣にあるのが三河総社。朝廷から派遣された国司が祭祀を執り行った神社です。尾張の総社である稲沢の国府宮と比べると、ずいぶん寂しいですが。
ここからゴールの名鉄国府駅まではすぐです。
集合場所
名鉄国府駅が集合場所、出発点になります。
行程とコースタイム
このコースは名鉄国府駅から歩き始め、見学を含めて3時間ほどです。すべて舗装された道を歩きます。大きな上り下りもありません。
昼食
名鉄国府駅周辺に飲食店があります。取材の日はつるつるうどん定吉で名物の串揚げうどん(冷やし)をいただきました。
トイレ
道中は途中の公園などに公衆トイレがあります。
持ち物と服装
街歩きの服装で大丈夫です。靴はスニーカーを勧めます。
ハイキング適期
三河は温暖で年中訪れることができますが、夏の暑い時期は避けるほうが良いでしょう。
近隣の見どころ
名鉄名電赤坂駅から東海道を歩いて御油の松並木などを見学するコースと組み合わせると、1日のウォーキングになります。
また、名鉄電車で数駅離れた豊川稲荷を訪問するのも一興です。