タグ: 源義朝公墓所
法山寺で入浴中に討たれた時、源義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と言い残したと伝えられます。このため義朝の墓には木刀が供えられています。ただしこの記述は『尾張名所図会』にだけあるそうで、後世に創られた話である可能性が高いです。
墓地の入り口にはお供え用の木太刀が売られています。


義朝の墓の周りには、いくつか他にも墓石のようなものがたっています。
まずは織田信孝の墓。安養院で自害させられた後、源頼朝の墓の脇に葬られたようです。

続いて池禅尼(いけのぜんに)の塚。池禅尼は平清盛の継母ですが、義朝が敗れた平治の乱の後、平家に捉えられた源頼朝の助命を嘆願した。頼朝は処刑されることなく、伊豆に流されることになり、その恩を忘れずに頼朝がここに池禅尼の供養塔を建てたとか。

続いて鎌田政家とその妻の墓。鎌田政家とは誰?という感じでしたが、鎌田政家は平安末期の武将で、源義朝の家臣。平治の乱で負けて逃れる義朝は、鎌田正家の舅である長田忠致親子を頼って野間に来たのでした。ところが長田親子は裏切り、法山寺で義朝を討つ前日に鎌田正家を殺害。正家の妻(長田忠致の娘)もその場で自害したと伝えられています。

近くには、義朝の首を洗ったと言われる血の池があります。

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