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安土城は織田信長が1576年に近江の国安土に居城として築城したもので、大型の天守閣を持った城としては初めてのものでした。
安土城跡は、現在では安土城と共に織田信長が創建した摠見寺の所有管理となっています。
安土城には大手道、百々橋口道、搦手道、七曲がり道という四つの道があったようですが、現在確認できるのは大手道と、百々橋口道で、城なび館から登るのは大手道です。大手道はいわば「正面玄関」のようなもので、安土城では特に道の両側に大名屋敷を配置して、織田信長の権威を示すために作られた道のようです。開けたところから石段を先に進むほど細くなり、天主へ至る構造です。
登り始めると左右には豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の屋敷跡、前田利家の屋敷跡、そして徳川家康の屋敷跡と、そうそうたるメンバーの屋敷が続きます。徳川家康の屋敷跡は、現在摠見寺の仮本堂が建っています。
続いて武井夕庵邸跡。武井夕庵はあまりなじみがない名前ですが、当初斎藤道三に仕え、のちに織田信長の家臣となった、茶人としても有名な人だそうです。茶人であるということから信長に気に入られたのでしょうか。
さらに登ると織田信澄邸跡と森蘭丸邸跡。織田信澄は信長の甥にあたる信長側近で、安土宗論の時には警護役を務めています。ただ明智光秀の娘と婚姻関係にあったため、本能寺の変後に疑いをかけられ、討ち取られてしまいました。ちなみに織田信澄邸跡と森蘭丸邸跡は、藪におおわれていたどのような状況にあったのか確認はできません。
やがて黒金門跡。このあたりから石垣の石が大きくなってきます。
黒金門あとから本丸とは反対方向へ進むとそこが長谷川秀一邸跡。長谷川秀一は信長の小姓で、やはり安土宗論の警護役でした。後に文禄の役で朝鮮出兵時か、あるいは帰国直後に病死したそうです。
長谷川秀一邸跡には、織田信雄公四代供養塔があります。織田信雄は信長の次男で、江戸時代になると大和宇陀松山藩の初代藩主となった人です。松山藩主第五代当主の信休が転封となったため、信雄以降4代藩主の墓所を現宇田市の徳源寺からこの地に移したそうです。
ここから本丸を目指して少し登ると、仏足石があります。なぜ城内に仏足石?と思ったら、どうも安土城築城時に石材としてどこかから持ち込まれたもののようで、他にも石仏が石段に数多く使われていたりします。
そして安土城本丸跡。ここには内裏清涼殿に似た構造がわかることから、天皇の行幸を考えて御殿が立てられたのではないかと言われています。
そして安土城天主跡。
天主跡に隣接して二の丸跡があります。二の丸跡は織田信長公本廟があります。1583年に羽柴秀吉らが建立し、信長の太刀や烏帽子、直垂などの遺品が埋葬されたそうです。
安土城跡と安土の町(ハイキング・コース)
この安土城跡ハイキング・コースは、JR安土駅を起点として織田信長が築いた安土城跡や、安土の町とその周辺を巡るも…