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浅井長政の居城であった小谷城はJR北陸本線の河毛駅が最寄り駅です。小谷城の全体像はこんな感じ。
小谷城の追手道の案内に従って車道を外れ、尾根に向かって歩き始めると、すぐに「磯野屋敷跡」の表示。これは浅井長政配下の磯野員昌(いそのかずまさ)の屋敷があったところです。磯野員昌は姉川の合戦で名を挙げ、かつて彦根の佐和山城の城主を務めていた武将です。佐和山城が織田信長に攻略された折に降伏し、織田氏配下となりました。
尾根に登りついたところからすぐのところにあるのが間柄峠。そこからしばらく登ったところが金吾丸。この辺りは、織田軍が小谷城を攻めるより以前、1525年に、六角高頼が小谷城を攻めた時の戦跡です。初代浅井亮政の時のことでしょうか。
小谷城に越前の朝倉氏が浅井氏に援軍を送り、朝倉配下の武将、真柄備中守が陣取ったのが真柄峠、朝倉金吾教景(あさくらのりかげ)が陣取ったのが金吾丸だそうです。
金吾丸から少し登ると番所。ここは検問所のようなものだったようです。
御馬屋跡は、本丸からちょっと降りたところにある曲輪です。
帯曲輪は、御馬屋から本丸に直接向かうと見逃してしまう位置、本丸の下、清水谷側にある帯状の長い曲輪です。
石段の残る小谷城黒金門跡。この上は大広間と呼ばれる広いスペースになっています。
黒金門跡の近くにある桜馬場と呼ばれる曲輪。
1533年、六角氏の合戦のおりに内通していた家臣の今井秀信の首を晒したのが首据石。
織田の軍勢に追い詰められた浅井長政が自害したのが赤尾屋敷と伝えられています。
小谷城の大広間と、奥が本丸。石垣が見えます。
本丸跡は意外に狭いです。
本丸の北側は大きな堀切。
堀切から上がった北側が小谷城中丸。
小丸と隣接しているのが京極丸。かつての主君、京極氏の屋敷があったと伝えられます。
小丸は2代城主、浅井久政が信長の軍勢に攻められた自害したところ。
山王丸を回り込んだところに立派な石垣が残っています。
小丸の上にある山王丸。かつて山王権現が祀られていたのでこの名があるそうです。
山王丸の上にあるのが六坊跡。浅井氏ゆかりの六つの寺院が出張所?を設けていたようです。
小谷山頂上へと向かう道から逸れ、東側の尾根にあるのが月所丸。細長い尾根上に曲輪が続いています。
この辺りから急登が続きますが、岩尾と呼ばれるところまで来ると展望が開けます。
やがて山頂の大嶽城跡(おおづくじょう)。浅井亮政が最初に築いた本丸と言われています。曲輪を囲む土塁などが良く残っています。
大嶽城からは、北へ向かい高月駅に出られる道もあるようですが、このコースは南西側の尾根を下ります。
やがて出てくるのが福寿丸跡。福寿丸と山崎丸は1572年に朝倉の援軍が築いた城郭です。木村福寿庵が守備に就いていたので福寿丸と呼ばれます。
福寿丸からさらに下ると山崎丸。こちらは山崎吉家が守っていました。