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「太平記」によると、南北朝時代であった1335年に、北朝を支持する六角氏頼が、南朝勢力の北畠顕家に備えて籠ったと記録されており、このころから観音寺城は砦あるいは城として使用されてたと考えられます。

その後京に近いこともあって、たびたび戦乱に巻き込まれます。足利尊氏と弟の足利直義が争った観応の擾乱では、尊氏方についた京極道誉(佐々木道誉)を観音寺城に追い込んでいます。応仁の乱で繰り返し戦場となりました。

ただし、観音寺城として大規模な城郭が作られるのは、戦国時代に六角高頼が家臣の伊庭行隆や山内政綱に城の整備を命じてからだとされています。まだ本格的な石垣の城が各地に作られる前で、総石垣造りの観音寺城は先駆的な城だったようです。

その後観音寺城に本拠を置く六角氏は、北近江の京極氏、浅井氏と敵対関係となり、戦を繰り返します。

最後は1568年の観音寺城の戦いでした。織田信長が足利義昭を伴って上洛する時に、敵対した六角義賢・六角義治父子はすぐ南にある箕作城が滝川一益丹羽長秀豊臣秀吉(当時は木下秀吉)らに落とされたのを見て、観音寺城へ向かった柴田勝家森可成らの攻撃を受ける前に城から脱出し、観音寺城は無血開城となりました。ちなみに浅井長政もこの頃はまだ織田信長方として参戦していました。

その後、近くに安土城ができるころには、観音寺城は廃城となったようです。

観音寺城の本丸があったと言われるところ。石垣が出てきます。虎口状の入り口があり、広い平地があり、土塁があり、少し下がったところには井戸があります。

観音寺城の縄張りは非常に広く、本丸を離れたところを歩いていても石垣や、廓の跡などを見かけます。元々は当時、東山道が通っていた南側に開くような形で作られた城郭で、追手道も南側にあります。観音正寺あたりから見ると、大石垣のあたりが遠望できます。